カテゴリー別アーカイブ: エピソード

No.6 勝負はゲタを履くまでわからない

彼を担当したのは高3の9月末でした。彼の自宅が和歌山ということもあり、時間調整が難航して1か月ほど遅れてしまったことを覚えています。
和歌山は大手の予備校が存在しないこともあり、彼は学校と地場の予備校の東進DVDでがんばっていたようです。基礎力は十分あるようでしたので、実戦への応用力の養成を主体にやっていきました。まずは入試問題集(数学:河合塾/理科:数研)を一通りマスターしてから過去問演習に入りました。彼は京都の工学部志望だったので、とりあえず過去問を15年分程度解けば出題パターンが1サイクル回り何とかなってきます。彼も一生懸命がんばっていました。
センターも無事終わり、滑り止めの私立(同志社)を無事通過し、いよいよです。その頃はもう必死ですから、こちらもそれに応えなくてはなりません。私の家は京都なので、とても時間的に間に合わないときはよく和歌山のホテルに泊まって教えに行ってました。他の受験生もいるのでそこ(高槻)が終わると午前1時、翌日の朝に授業が入っているのでそこから和歌山に向かって着いたのが午前3時、ホテルの人もあきれてました。
さて入試ですが、終わって手ごたえを聞くと本人はニコニコ、十分合格ラインは越えたと言います。解答速報見ても答えあってるとのこと。それはよかったね、じゃあどういうふうに解いたかと聞くと答案を再現していってくれたのですが、一問、途中でわからなくなったところがあったのだけど、うまいことごまかしたらあとうまいこといった、と言います。私は顔ではにこにこしていましたが、内心これはまずいと思いました。京大は解答よりもプロセスを重視します。答案に論理性がないとその先はなんぼ答えがあっていても点数にはなりません。そこで、後期を阪大(当時は阪大は後期入試ありました)にしてあったので、それをがんばれととにかくせっつきました。ところが彼はできたと思っているのでなかなかやる気になりません。燃え尽きたって感じです。「なんでせなあかんの??」というのを文字通り無理やりやらせました。通常受験生は前期入試が終わるとすっかり気が抜けてしまい、合格発表で落ちたと分かったときは後期入試は数日後、もう手のほどこしようがありません。なので後期はテンションが維持できるかどうかが合否を左右することも多いのが実情です。結果は案の定京都はダメでした。彼はショックを受けていたようですが、後期対策をやっていたおかげで阪大は問題なくパスしました。
マーク式の私立はともかく、記述式の国公立は論理性が大切です。正解ばかり追うのではなく、正解に至るプロセスを重視すること、そして受験は合格通知書が机に来てはじめて終わるものだということがわかっていただけたらと思います。

No.5 直前は戦術、通ってナンボです

家庭教師の依頼が来たのは11月でした。彼女はすでに2浪、尼崎で有名な公立高校出身ですが医学部となるとちょっときつい。さすがに今回が最後の受験と決めたらしく、医学部がダメなら薬学部にするとのこと。まさに背水の陣。時期が時期なのですべてを網羅的にみることはできません、弱点分野の補強とセンター対策に絞って、塾の講義テキスト・模試・センター実戦問題集や過去問を用いてやっていきました。実力的には標準ちょっと上という感じで特にずば抜けた実力をもった教科があるわけでもなく、総合力で勝負という感じでしたから、時間短縮と点数を上げるテクニック中心に教えていきました。
一方、12月に入って今度は1浪の生徒の依頼がありました。彼の場合は「いいところまで来ているのに今一つ抜け出せないので見てほしい」とのこと。で、実際に見てみると特に問題なくスラスラと解いていきます。単科医大はともかく総合大学では実力的には特に問題ないですよと伝え、総合系の大学の過去問を解説する形でやっていったのですが、年末あたりからなんだかんだとドタキャンが続きます。直前期なので都度次回日程を決めて行っていたのですがキャンセルが立て続くと日程設定が困難となります。まぁ時期も時期だし思うようにやればいいでしょうということでほとんど没交渉になってしまいました。
さて、センター試験が終わり結果を見ると、その年は簡単な年で平均が高く、医学部のボーダーも軒並み上がりました。はじめの尼崎の子も得点率90%ちょうど、例年ならよくやったですがそうは言ってられません。神戸・市大では届かないし、単科医大は実力的に難しい。結局地方の国公立で考えるしかないのですが、有名どころのボーダー点が高いので受験生が志望校を落として殺到するのは目に見えています。さてどうしたものかと考えた結果、前期は香川にしました。香川はその年受験科目を増やして敬遠されていました。数学は単科医大時代以来の伝統で少し難しく気になったのですが理科は工学部と同一問題だろうと予想を立て、まぁ近畿からそう大きく離れるわけでもないからここにかけようと決めました。後期はそんなこと言ってられません。小論・面接だけだと結局センター点がモノいうのでセンターリサーチでA判定出ていないとギャンブルになってしまいます。結局そこまでの点数はなく、学力試験のところを探してもどこも高倍率で難しい。今年で最後となれば岐阜送りにもできない。比較的マシなところが旭川なのでそこでどうかと聞くとさすがに「えぇ~~!?」と一言。とそのとき遠くからお母さんの声が。「四の五の言ってられないでしょう!!」この鶴の一声で決まりました。
さて、受験校を決めたらそこからがまた大変です。滑り止めの薬学(大薬/神薬)は落とせませんし、香川は数学がきついのでまずは無理せず部分点狙い。できる範囲を着実に解いて、それを答案にするときに論理的に書くことを心がけてやっていきました。またよほど旭川が嫌らしく、「ダイアモンドダストが見られるぞ、クマ出るぞ」というと必死に過去問を解いていました。
一方、後のほうの生徒はというと、センターは92%強とったようです。結局、こちらには連絡のないまま家庭教師センターと相談して志望校を決めたそうです。神戸はボーダーなので安全策をとって徳島にしたとのこと、たしかにセオリー通りだけど殺到するだろうから大丈夫かと思っていたら、案の定すごい倍率。あららと思っていたら連絡があってまた来てくださいとのこと。2月まわってもう入試まで日にちもないのに… と思いながら伺いました。行くと「安全策を取ったから大丈夫」と口癖のように言ってました。結局、時間もあまりないので答案作成中心に見ていくようにしました。
さて、結果ですが、はじめの生徒は滑り止めを含めて合格しました。特に香川の発表のときは家まで行ってパソコンの前で「いよいよやね、さあクリック、クリック」というと、「先生、趣味悪い~」と言いながらも発表を見て、自分の番号をみつけるとすっかり泣き出してしまいました。しばらくすると郵便が来て合格通知書がやってきました。「この紙のために今までどれだけ苦労したか」というと今度は周りにあった参考書・問題集を捨てはじめました。さすがにそれはと思い、「ほなそれもらって帰って後の生徒さんのために使うわ」というとあれもこれもと出るわ出るわ、車がいっぱいになってしまいました。でも本当によかったです。
一方、後の生徒ですが、こちらはダメでした。後期を岐阜にしていたようですが倍率が高くてほとんど戦意喪失。授業中何度も涙が流れ、それをぬぐうこともしない姿を今も忘れられません。どうやら線の細い生徒さんだったようですが、実力的には行ける能力を持っていただけにもったいなかったです。センター前に休むなら休む、センター後はいつから来てほしいとしっかりと伝えておいていただけたら、受験校も違っていただろうし結果も違っていたかもしれません。家庭教師を使うときは使い方というものがあるのでうまく使っていただければと思います。

No.4 ご家庭の協力のたまものでした

彼を担当したのは3年生のセンター試験後のことでした。大阪か神戸の工学部志望ということでお伺いしたのですが、初回の授業の後、お母さんがお話があるということで別室に通されました。合格可能性のことかなと思ったのですが、話が逆で「無理して本気出して通さないでくれ」という話。点数的にキツかったのでこちらとしては楽ですが、変な話もあるもんだなと思ってました。
で、1か月半ほど直前対策をしたのですが案の定ダメで一浪が確定。4月にまた呼ばれたのですが、お母さんも本人もニコニコ。いよいよ???だったのですが、聞けば友人と河合塾の試験を受けに行ったところ、国公立医学部のクラスに入れたとのこと。そういえば御家庭は開業医、成績が悪くて本人は医学部とは言い出せず、お母さんもそれを見抜いていたようでした。
そのころ、私のほうが塾で常勤となり校舎長をやっていたので時間が合わず、朝の8時から授業をしていました。「河合塾なら国公立医学部だと偏差値70が必要」とはっぱをかけ、本人も頑張ってやっていました。おかげで出だしは上々、なかなかいい感じでした。
ところが、秋口にたるとだんだんと調子が下向きになってきました。簡単な話で、本人の学力が下がっているというより周りが上がってきているからです。通常浪人生の場合、入試が終わってから予備校での授業が始まるまで1か月から1か月半あります。そこでのんびりしてしまうと取り返すのに七夕くらいまでかかってしまいます。逆に言えば、灘・甲陽といった進学校の生徒さんの場合、3月・4月はのんびりしていても授業が始まり本気を出すと夏場にはみんな抜き去ってしまいます。彼はよく「俺らはプロペラ機やけど、彼らはジェット機やから油断するとすぐ抜かれる」と言ってました。また、現役生の追い上げもあります。現役生ははじめがボロボロな分、勉強が追い付いてくるとと偏差値の上がりが早いので、相対的に浪人生の偏差値は下がってきてしまいます。
特に彼の場合、教室で財布が盗まれるようなアクシデントがあったりもして気分的に落ち込んでいきました。お母さん曰く「2浪の影がヒタヒタと近づいてきた」感じでした。あるとき彼がお母さんに相談したらしく、国公立は難しい、2浪するかもしれないと伝えたそうです。そのときお母さんが「なら、私立でいいじゃないの?」と一言。本人が「いいの?」というと、お母さんやおらに押入れを開けたそうです。そこには私立医学部の過去問集がズラリ、10数冊買ってあったそうです。
これでまた奮起して、過去問を分野別に分けてしらみつぶしにおさえていきました。目標校は家から通えるところで兵医に設定しました。ただ、文字通りのしらみつぶしを数物化すべてで行っていくとなると時間が全然足りず、空き時間があればすべて割り当てていったのですが、それでも時間が足りず、後の生徒の授業時間に食い込んできます。さすがにそろそろ行かないといけないというと、次の生徒は何年生かと聞いてきます。高2と伝えると「そちらはまだ1年あるやないか、こちらは背水の陣どころかすでに水につかってる。夜の10時にしてもらえ。」という始末。
また、過去問を自習室に忘れてしまったときはお母さんがこれから高速飛ばして梅田で買ってくる、片道20分で走ります!と出かけようとするし、すさまじい追い込みでした。
ただ、やっぱり医学部は難しい。結果はジェットコースター状態でした。センター利用で帝京を出してあったのですが、理数の2科目満点だけど英語が9割で結局不合格、落ち込んでいたら同じ帝京が一般入試で合格、喜んでいたら本命の兵医で不合格、がっくりしていたら予想外に近大が合格、という具合で数日単位で上がったり下がったり。医学部は倍率が高いのでささいなことが合否の分かれ目になります。なのでよほどの人でない限り、本命校に対して上位校と下位校を受験して幅を持たせておかなくては何が起こるかわかりません。彼の場合は結果がいいように出て本当によかったです。

No.3 信念と基礎固めです

依頼があったのは4月はじめ、文系の1浪目の生徒で場所も私の家の近くということでした。ところが話をよく聞いてみると、その家は彼女のお婆さんの家で生徒さんは枚方から通ってくるということでした。それはさすがに手間がかかるでしょうからそちらまで伺いましょうか、というとこちらで結構ですとのこと、あまり深入りしてはと思いそれ以上は言いませんでした。
高校は大阪でも有名な公立高校でしたが、予備校が大手ではなく地元の予備校、どうやらそれを心配したお婆さんが家庭教師を頼んだというのが真相のようでした。中小の予備校となるとキメが細かいという長所もありますが、人数的な関係上クラス編成が能力別にしっかり分けることができないので、数学の弱い文系の生徒には授業が合わなくて苦労してしまうことも往々にしてあります。案の定、彼女も合わなかったみたいで、はじめは予備校のフォローを行っていたのですが、だんだん基礎演習をこちらで独自でやっていくようになっていきました。まずは4ステップから始め、実力強化問題集をしっかり押さえていきました。ただ、目標校が京都の法学部、すべきことはたくさんあります。入試が近づくにつれ、彼女はお婆さんの家に泊まり込むようになり、予備校もそこそこにがんばっていたそうです。
ただ、どうしても数学が弱く、特に応用的な問題になると切り口がつかめずに解けないことがよくありました。で、基本的・典型的なパターンの習得に重点を置き、あとセンター対策にも時間を割いてやっていきました。
センター試験はよくできました。滑り止めの私立もそう多く考える必要もなくなり、後は京都目指して一直線です。ところがそのとき彼女から衝撃的な一言が。実は通っていた予備校では英語がセンター対策しかやっていなくて、二次対策、特に京都の対策はほぼゼロ状態とのこと。これにはお先真っ暗になりました。京都では受験科目が4教科なので、1教科ぐらいは失敗しても何とかなります。でもさすがに2教科失敗するとどうにもなりません。文系の生徒さんなので数学を何とかお荷物にならないようにしてあとは文系教科で戦えば何とかなると踏んでいたのでこれは大きな痛手でした。二次試験まであと1ヵ月強、いまさら英語で家庭教師をつけても時間的に無理だなと判断して、とりあえず英文解釈教室を読んで構文解析だけできるようにがんばれと伝え、あとは数学の失点をなるべく少なくするようにするしかありません。
ところが、過去問演習となるとなかなか解けません。東京出版の過去問集では問題ごとに難易度を示してくれているのですが、最も易しいAランクのしかも目標時間10分の問題が自力で解ける限度、Bランクになるとなかなか歯が立ちません。こちらは暗澹たる気持ちでしたが、こうなれば過去問の中でも基本問題ばかり集めてそれを解き、あと答案作成で失点の出ないように指導していくしかありません。彼女は必死にがんばっていました。本当に二次試験のときは内心祈るような気持でした。
がんばりが天に通じたのか、その年は数学が非常に簡単でした。そして見事合格しました。本人だけでなくおばあさんの電話の喜ぶ声。あれは忘れられません。どのご家庭でもそうかもしれませんが、受験となると一家あげて総力戦になります。おじいさんが車で送り迎え、おばあさんが食事その他身の回り一切を取り仕切り、大変だったと思います。合格して本当によかったです。
それから数ヶ月後、おばあさんから連絡がありました。実は今、成績開示が送られてきて、見ると英語はしんどかったけど数学が満点を取ったとのことでした。さすがに満点とはびっくりしました。これは無理せず基礎を固め、あたりまえのことを順序立ててしっかり書くことがいかに大切かを改めて教えてくれました。
そしてそのあとに一言。「うちは受験を控えた孫があと3人いますので。」順番にすべて担当していくことになりました。そして本人はその後公務員試験を経て、官僚としてがんばっているそうです。

No.2 地方での必要性を痛感しました

その依頼があったのは年明けのことでした。家庭教師センターから、数Ⅲがわからない生徒がいるので行ってほしいと言われたのですが、さすがに他の受験生の追い込み時期だったのでもう少し待って入試が終わってから行くことになりました。で、場所を聞くと実家は舞鶴だけど京都の北山のほうにも家があるので生徒さんが週末に通ってくるとのこと、そして何年生かと聞くと「この時期で数Ⅲやから2年生でしょう」とのこと、とすると受験まであと1年、受験生に毎週末舞鶴から京都市内に通っていただくのも負担が大きいししかも女の子、ちょっと遠いけどこちらからお伺いしましょうということになり、二次試験の終わった3月早々にご自宅に伺いました。舞鶴市内は路肩のあちこちにまだ雪が残っていました。ところが行って話をするとこれがなんと1年生。おいおい、これから2年通うのかと思ったけどもう仕方ありません。がんばって週2回伺うことにしました。その頃はまだ高速道路が開通してなかったこともあり、特に夜中12時を回って舞鶴で軍艦の黒い影を見、霧のなか丹波山地を縦走するのはなかなかの経験でした。
さて、生徒さんですが、これがよくできました。福知山の高校に通っておられたのですが、他に府の北部にはめぼしい教育機関がありません。にもかかわらず偏差値は70をゆうに超えてました。聞くと講習とかの折に特急列車で京都まで来て授業をかためてとって聞くとのこと、すごく苦労されていたんだなと思いました。そこで数学は大学への数学、物理は難系、化学は新演習から特講テキストを用いてやっていきました。よく努力されるので、成績はうなぎのぼりで、河合の模試(学校で受けます)は常に80超え、駿台の模試でも理Ⅲ・京医・阪医・慶應、どこでもOKという感じでした。授業ではよく大数の学コンの問題を解いていましたが、よく解答を送って景品のバインダー等をもらっていたそうです。
そういうわけで、受験校については特に学力的に制約はなく、あとは自由に決めてくださいという感じでした。本人は「私は臨床がしたいから阪医にする」というわけで阪大に決まりました。
入試が近づくと、お父さんのほうから「学校休め休め」と言われるとよくこぼしてました。聞けばお父さんもその学校出身とのこと、自分はよく校庭のフェンスの向こう側に自転車を置いてよく脱走していたらしいです。受験という意味での学校の限界もよくわかっておられたからだと思うのですが、いやはや。まぁ現役合格は見えていたので、2学期以降は休んでも調査書に記載されることはないので特にいいのですが、そこまでしなくても十分すぎる学力があったのでそこはぼちぼちにということで落ち着きました。
というわけで、入試に関しては何の問題もなくするっと通過していきました。これだけ何の心配もない生徒さんも珍しかったです。
この件を通じて、地方での塾・予備校等の教育機関の貧弱さを実感をもって体験しました。それから、地方での依頼をなるべく受けるようにしました。家庭教師なので大きなことはできませんが、少しでも地理的な制約のために教育機会まで制限されないようにと努力していきたいと思ったからです。ただ、私の車の走行距離が伸びて買い替えサイクルが2年を切ってしまっているのが悩みの種ですが(笑)

No.1 手のかかる生徒でした…

彼を担当したのは高3の年末も押し迫った頃でした。
前の家庭教師とトラブルがあったらしくその代わりで伺ったのですが、入試の直前での講師交代は通常ロクなことなく、これは大変だぞと覚悟を決めて行きました。
案の定、お父さんからは開口一番、「うちは歯医者や! 歯医者ついでくれたらそれでいいんや! 俺の息子やからデキが悪いのはわかってる、それを医学部というてどないしてくれるんや! お前のところの家庭教師センターに今までいくら払ったか、外車何台分や!」と苦情のオンパレード、はじめはわけがわからなかったのですが、どうやらご家庭は歯学部に行って欲しかった(歯科医院を経営されていて彼は長男でした)のに家庭教師が医学部受験をたきつけて本人もその気になったものの学力が伴わず煮詰まってしまっているようでした。
何はともあれ、生徒さんと面談してみると、ご本人曰く信州大学医学部を志望とのこと、なぜかと聞けば二次科目が数学だけ(当時)だからという返事。これはうなってしまいました。通常科目数が少ないとその科目が非常に得意な生徒が受けてくるので、特に現役の医学部受験ではよほど強くない限り避けるのが定石です。それではということで、一度問題を解いてもらいましょうということで、低位の私立の入試問題を解いてもらったのですが、これが得点率10%~20%… これでは手のほどこしようがない、1から着実に固めなおすしかありません。
次回から彼にはひたすら青チャートを解いてもらいました。センターや私学入試の対策もこれだけ学力が低いとするだけ時間のムダ、そこは適当にあしらっていると、彼が「なぜこの時期に赤本ではなく青い本を解いているのか?」と聞かれましたが、まぁまぁといなしながらどっさり解いてもらいました。
ご家庭からは「一浪で医学部か歯学部」といわれていたので、現状の学力を考えると私立の歯学部が落としどころ、医学部は必死でやっても低位の私立で届くかどうか、あとはやるだけやってそのときの運任せかなと思いました。
駿台でのクラスは案の定下のクラス、ここからは正直なかなか通りません。それでも、やる気だけは十分あったので、まずは私学に絞り、予備校の進度をペースメイクにして数学はチャート、理科は傍用問題集から重要問題集で補充して着実におさえていきました。
そのかいあって、前期が終わるころには偏差値もやっと50を超え、歯学部でC判定が出るようになってきました。
ところが、文字通り休みなしで一日12~14時間ひたすら勉強し続けた反動がきたのか、判定が出始めてほっとしたのか、そこで勉強がぱったり止まってしまいました。それまで毎回チェックシートに一日やった内容を書いてもらって授業のたびに確認していたのですが、これが白紙状態、これはまずいと思って、毎日やったことをFAXで流せと言ってもなかなか送らない、仕方がないのでメールや電話で矢の催促(あとで言ってましたが、これが俺には呪いのメールだった、とのことです)、授業でなんぼ説教しても暖簾に腕押し状態です。これは、学力の低い方が特に医学部のような難関大学を目指すときに起こりがちなことで、正直あまり詰めた勉強をした経験がないので、ある程度まで学力があがったときにこれでなんとかなると思って、それまでしんどかった分息切れして気が抜けてしまいます。ところが実際は厳しいもので、道半ばで気を抜いたらあっというまに元の木阿弥になってしまいます。
このようなことが1か月くらい続いたでしょうか、あるとき彼に今考えている受験校を書いてもらいました。紙の右半分に上から順番に書いてもらったのですが、すべて医学部ばかり。そこで、「歯学部は受けないんか?」と聞くと下に何校か付け加えました。そこで、私は医学部と歯学部の間を横線で区切り、さらに歯学部を関西とその他地域との間で線を引いて3つに分けてから紙の左側に上から順番に「夢」「本命」「滑り止め」とでかでかと書きました。つまり、本人が当初書いた医学部をすべて「夢」としたのでさすがに怒りましたが、そこでやっと気がついたみたいで、勉強を再開してくれました。ただこれはよほどインパクトが大きかったらしく、具体的に受験校を決めるときお父さんがやってきて、「無理でもいいから医学部受けさせてやってほしい」と頼まれたことを覚えています。
その後もすったもんだありましたが、結局その紙どおりになり「本命」の歯学部に落ち着きました。本人曰くここなら高校に推薦枠があったとのこと、医学部は大変だということがよくわかりましたと言ってました。結局進路指導のミスを1年かけて元のレールに戻した感じでした。